歌聖 柿本人麻呂の生誕地は諸説ありますが、その有力な説の一つに天理市櫟本にある柿本寺周辺があります。柿本寺は『柿本朝臣人麻呂勘文』によると人麻呂の一族の柿本朝臣氏によって建立されました。「朝臣」という姓(かばね)は天武天皇が作った「八色の姓」の第二位にあたり、有力な氏族に与えられたものです。
人麻呂はこの地に生まれ、宮廷歌人として高市皇子や草壁皇子の挽歌を作るなど宮廷歌人として活躍しましたが、最後は石見国(島根県)高角の鴨山で亡くなったとされていますが、これも諸説あり定かではありません。その辞世の歌が有名な『石見のや高角山の間より我が振る袖を妹見つらむか』です。この哀傷極まりない歌は今も我々の心を強くうってやみません。現在の「歌塚」は人麻呂が亡くなると、その遺髪を持ち帰り祀ったものと伝えられています。
その後、柿本寺は時代の変遷の中、南北朝の争乱で焼亡した後、移転して再建されましたが、寺運の衰えはやまず、江戸時代にはついに堂塔は一宇一院のみとなりました。山門は傾き、軒端には苔が生えるといった有様であったと伝えられています。江戸時代の後期に国学の誕生とともに万葉集研究が始まると、柿本寺も再び脚光を再び浴びるようになりますが、明治ニ年の神仏分離令によってついに廃寺となりました。
廃寺になった柿本寺の寺宝は極楽寺に移されましたが、昭和三十五年頃に正式に「極楽寺人麻呂顕彰会」によって管理されることになりました。貴重な柿本寺の文化財はようやく散逸の恐れがなくなったのです。
「極楽寺人麻呂顕彰会」は「柿本宮曼荼羅」を原寸大で複製し、その昔日の光輝を取り戻しました。
「極楽寺人麻呂顕彰会」では毎年、追善法要を執り行って人麻呂の魂を慰めるとともに顕彰に努めています。ようやく、歌聖 柿本人麻呂の魂は極楽寺という安住の地を得て永遠に安んじることができるようになったのです。